京極夏彦の立ち読み


百器徒然袋 雨 本棚に戻る
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散々思案した挙げ句に、大河内康治は口の端を思い切り下げて、
「それじゃあ探偵を紹介しましょう。」
と云った。
「探偵?」
こうした揉め事に探偵とは、また頓狂な取り合わせだと思ったから、僕は聞き間違いかと考えて即座に問い返した。
……狂乱の大活劇が終わって、榎木津さんが見たとき、かの山嵐のトゲは綺麗に刈り取られていて、全部黒焼きにされていたんだよ。かなり見たかったようだからね、トゲが一一」
近藤は頭を抱えた。そして、お前の云う通り心を入れ替えて荒唐無稽な紙芝居を描くよ本島---と云った。

狂骨の夢 本棚に戻る
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海鳴りが嫌いだ。遥か彼方、気も遠くなる程の遠くから次々と押し寄せる閑寂として脅迫的な轟音。いったいどこから聞こえてくるのか。何の音なのか。何が鳴っているのか。果てのない広がりや、無意味な奥行きばかり感じさせて、ひとつも安心できない。 「お前なんか大っ嫌いだッ!」
伊佐間の予想は外れた。
朱美は伊佐間の方を見て、笑った。
髑髏は波に攫われて見えなくなってしまった。

魍魎の匣 本棚に戻る
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祖母が亡くなったので急ぎ帰省した。
都会を離れる帰省の列車は空いていた。
この車両には、くたびれた老婆がひとり乗っているだけだ。
休日でも無いのに田舎に向ふものなど誰も居らぬのだらう。
何と今日は良い天気だ。
窓からの風が頬に心地良い。僅かに故郷の匂ひがした。何と心地良い。
私は想像する。
遥かな荒涼とした大地をひとり行く男。
男の背負っている匣には綺麗な娘が入っている。
男は満ち足りて、どこまでも、どこまでも歩いて行く。
それでも
私は、何だか酷く一一
男が羨ましくなってしまった。

姑獲鳥の夏 本棚に戻る
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どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが目指す京極堂である。梅雨も明けようかという夏の陽射しは、あまり清清しいとは言い難い。坂の途中に樹木など…… 見上げると、雲ひとつない抜けるような青空である。もう梅雨はすっかり明けたのだ。
そして私は、坂のたぶん七分目あたりで、大きく溜め息を吐いた。
どすこい 本棚に戻る
文中の数行
「四十七人の力士」:池宮彰一郎先生の作品とは一切因果関係がありません / 新京極夏彦
「パラサイト・デブ」:馬鹿タイトルを笑って許してくれた瀬名秀明氏に心から感謝致します/南極夏彦
「理油」:宮部みゆき先生の作品とは無関係です。見逃して下さい/両国踏四股
「ウロボロスの基礎代謝」:竹本健治先生の作品と無関係とは申しませんがね/京極夏彦

覘き小平次 本棚に戻る
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小平次はいつも然うしている。
頚を胴躰に深く埋もれさせ、脊椎も折れよう程に彎曲て、貧弱な顎を突き出し、腰を浮かせて固まっている。左手では自然薯の如きふたつの膝頭を抱え、右手では爪先立った右足の踵を摩っている。踵は荒れていて、皹割れた皮が厚く盛られているので、触れても感覚がない。指先は乾いた鏡餅の如きそれを感じているのに、踵の方は何の反応もない。己が自身に触れているのに、一向そうした感触がない。
触れている己が小平次ならば、この身体は誰方のものか。否、この躰こそ小平次なのだとして、触れている主体は何処の誰奴か。踵を弄うだけで小平次は、小平次というものから、もっと茫洋とした何かに薄まることができる。
希薄になるのは心地良いことだ。このまま薄まって薄まって、微昏がりに雑じってしまえれば、小平次は殊の外幸福である。

「妾はお前を選んだけれど、好いて選んだ訳じゃない。決して好いた訳じゃない。妾はお前が好きじゃない。国が滅びようと天地が引繰り返ろうと、金輪際お前のことなんか好きにはならないからね一一」

ずっとずっと何時までも。
妾はお前が。
大ッ嫌いだ。

女がそう言った後。
静かに、静かに襖が閉まる音を、萩乃亮は確かに聞いた。
それでもいいのか。
怖くはなくなった。でも如何にも悲しい気分になったから一一。
萩乃亮は、後ろを見ずに去った。

小豆洗い(あずきあらい) in 巷説百物語 本棚に戻る
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越後の国に枝折峠という難所がある。
一帯に椈の巨木が生い茂り、昼尚暗い秘境であるという。その昔、平清盛に都を追われた中納言藤原三郎房利が尾瀬へと向かうその途中、この椈の森へと迷い込み、苦心難渋した際に突如不可思議なる童子が立ち現れ、枝を折り乍ら一行を山頂まで導いたという故事がある故、枝折峠の名があるのである。
解っていますよ一一と百介は答える。「すべては小豆洗いの所為で良いのでしょう?」
「そう、小豆磨ごうか人獲って喰おか」
又一はそう言って優しく手を差し伸べて吾兵エを立たせた。
それから、川を渡るなら丸木橋がありやすから、そこを行くのが安全ですぜ……と言って、にこやかに笑った。

嗤う伊右衛門 本棚に戻る
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伊右衛門は蚊帳越しの景色を好まない。
蚊帳越しの世間は如何にも霞んでいて、眸に薄膜の張ったが如き不快を覚える。伊右衛門は取り分け明瞭と目の前の拓けたのを好む訳ではないのだが、がさがさと擦傷でもついたように世間が擦れて見えるのは嫌いだった。
侍の顔は一一
伊右衛門様とお岩様です---と男は言った。
伊右衛門は
嗤っていた。
余茂七は手を合わせ、意味もなく、ただはらはらと泣いた。