R.D.ウィング・フィールドの立ち読み


夜のフロスト 本棚に戻る
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老女の名前は、ヘインズ夫人といった。メアリー・ヘインズ。だが、彼女のことをメアリーと呼ぶ人は、今ではもうひとりもいなかった。何年もまえに、夫に先立てれてしまってからは。七十八歳の彼女は、自宅の玄関先に立ったまま、恐ろしさに震えていた。
ちょうど教会の墓地から、戻ってきたところだった。墓地には、天候が許す限り、日曜日ごとに通っていた。夫の墓を掃除し、カットグラスの花瓶に新しい花を活けなおすために。その花瓶は、以前は自宅のサイドボードに飾っていたものだった。黒っぽい色をしたオークのサイドボード。ふたりが結婚した年に買ったその家具も、今では裏の使われていない部屋に押し込まれている。今日、墓に出向いてみると、牧師が険しい顔で待ち受けていた。「とんでもないことになりました、ヘインズ夫人。どうか、お気を確かに」
夫のはかの荒らされようを目の当たりにした瞬間、彼女はその場で気を失いそうになった。
フロストは煙草のパックを取り出し、ジーン・ナイトの唇に一本挟んでやった。「まだだいぶかかるんだろう?」
ジーン・ナイトは首を伸ばして、 フロストの差し出した火を借りた。「もうできあがってます」彼女はプリンターから吐き出された用紙を剥ぎ取り、調査報告書の書式に重ねてクリップで留め、フロストに差し出した。
フロストは、マフラーをもう一度しっかりと巻きなおしてレインコートのボタンをかけた。「きみにキスすべきなのか、はたまた、そのくそコンピュータにキスするべきなのか、おれとしては判断に迷っちまうよ」
煙草をくわえ、いとも幸せそうに調子はずれの口笛を吹きながら、ジャック・フロスト警部は意気揚々と廊下を歩き出した。ギルモアは、うっすらと軽蔑の色が混じった表情を浮かべて、その後ろ姿を見送った。ありがたいことに、月曜日にはアレン警部が職場に復帰することになっている。これでようやく、本物の警察官のもとで任務に就くことになりそうだった。

フロスト日和 本棚に戻る
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空気が澄み、身を切るような風が木々を揺らす、寒い秋。暗がりに潜んだ男は震えていた。両手にはめたゴム手袋の中で掌がじっとりと汗ばみ、マスクに覆われた顔を生温かい汗が滴り落ちた。間もなく、彼女の姿が見えてくるはずだった。彼女に触れることができるはずだった。月影の射さない暗闇深く身を潜めているので、男の姿は彼女には見えない。そこに男が潜んでいることに、彼女は気づきもしないだろう。気づいたときには……そう、もう手遅れだ。 「一一だが、おふくろさん、あんたじゃない」
コーニッシュ夫人は顔をあげ、顎を突き出して、挑むようにフロストの眼を真正面から見返した。「ちがう、盗んだのは、あたしだ。なんなら出るとこに出て証言したっていい。」
デスクのうえの電話が鳴った。マレットの秘書のミス・スミスからだった。署長が今からフロスト警部にお会いになるそうです、と知らせてきたのだった。
「待つように伝えてくれ」とフロストは言った。

クリスマスのフロスト 本棚に戻る
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その緊急通報が入ったのは、午前零時少しまえのことだった。電話の声は、ほとんど聞き取れないほど激しく震えていた。年輩の男の声だった。ひどく怯えたような声だった。
「警察ですか?パウエルといいます。エクスレイ・ロードのミードコテッジに住んでいるパウエルです。急いで警官をよこしてください。お願いです。急いで。賊が押し入ったんですわたしは……」そこで男はあえぎ声を洩らした。電話の声が途切れ、甲高い悲鳴に変わった。
「よせ……頼む、やめてくれ……やめてくれ……」何やら混乱したような物音。次の瞬間、電話は切れた。
激しい吹雪にもかかわらず、当該地域を巡回していたパチカーは、通報から三分ほどで現場に到着した。車が完全に停まりきらないうちに二名の巡査、エヴァンズとハウはそとに飛び出した。コテッジには明かりが灯っていた。
フロストは悪夢を見たいた。これまでに何度となく見てきた悪夢だった。いつものようにその夢は、病院に入院している彼が、車輪のついた寝台で手術室に運ばれていくところから始まった。手術室では、マスクをかけ、白衣を着込んだ人物が待ち受けていた。ふと見ると、緑色をした布のうえに、ぴかぴか光る、見るも恐ろしげな鋭く尖った道具類が一一メスや鋸のような格好をしたものが一一並べられている。いつもなら、そこで冷や汗をびっしりかき、震えながら眼を醒ますはずだった。が、今回の悪夢はまだ続いていた。フロストが一命を取り留める確率は、五分五分以下と見なされており、おそらくは、最後まで持ちこたえられないろうと予想されていた。
だが、フロストは数字が絡むことがとにかく苦手で、他人の予想を裏切ることが何より得意な男だった。
クリスマスまではあと六日。戸外では再び雪が降り始めていた。