高村 薫の立ち読み


李歐(りおう) 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
毎朝、あるのは重力だけだ。吉田一彰は、しばらく目が覚めたという感覚もないまま、布団の上にだらりと伸びている自分の身体に重力を感じ続けた。
まだ四月初めだというのに汗ばんだ身体は、その朝もまた、手足がついているのかどうかもわからない生気のなさで、だるかった。身体と首でつながっている頭の方は、ほとんど地球にのめり込んでいた。今日は何曜日か。授業は何時からか。サークルの約束は。アルバイトは。
朝、目覚めるたびにその日の予定を思い出すのに時間がかかり、さらに、それらの予定が自分のことだと認識するのにまた少し時間がかかる。試験の日も、人に会う日も、引っ越しの日もいつもそうだった。
そしてある朝、李歐は『サイエンティフィック・アメリカン』誌の最新号を一彰に開いて見せ、「おい、これをやろう」と言い出した。それは、遺伝子組み替え技術で作り出された、さまざまな新しい品種の農作物の記事だったが、そうして輝き出した李歐の目には、事業についての閃きや経営戦略とは別に、一彰には想像のつかない新たな夢がまた一つ、早くも見え隠れしていたものだった。
五月、嫩江のほとりには五千本の桜が咲いた。李歐は、花の妖気に誘われるように昔と同じファルセットで「ホォンフ一一スィヤーアァ、ラニヤァミ、ランタァ、ラァンタァ」と唄った。薄い布を波のように振り流しながら、全身を春の喜びに震わせ、その手指と腕と脚で、大地と天空の光全部を抱くようにして踊った。

レディー・ジョーカー 本棚に戻る
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『小生、不肖岡村清二は、去る二月末日を以て日之出神奈川工場を退職した四十名の一人であります。今日なほ思うこといろいろあり、現在病支障にて起き居もままならぬ身につき、一筆したためる次第です…』 久保はいつの間にか、かの岡村清二が『さうして何千夜と云ふもの、風邪に叩かれる板壁の外は雹か霰かと、人も馬も息を止めるやうにして耳をすませ』と書き綴った時間の中におり、地中から滲み出してくるようなその声を聞いた。

日吉町クラブ 本棚に戻る
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土曜の午後、勤め先の某銀行府中支点からマンションに戻ると、私は冷蔵庫の缶ビール一缶を空けながらネクタイを外し、糊のきいたワイシャツを脱ぎ捨てる。五分後には、私は少し膝のてかり始めたスラックスと、毛糸玉だらけのセーターと、二千円で買える綿入りジャンパーにハンチングという格好になっている。
衣装ダンスの扉についている鏡に自分の姿を映すとき、しばしば思い出すのが検察に収賄容疑で逮捕された政財界の名士たちのノーネクタイ姿だ。
午前八時半、ひっきりなしに流れる群集に混じったAが、山野の脇を通り過ぎながら、茶封筒をひったくる。そのまま改札口を通り抜ける。数メートルほど歩いたところで、中にいたBがそれをまた素早くひったくる。通路の途中で、今度はCがそれを取る。
ホームへ上がる階段などで、次はDが封筒を取り、ショッピングバッグなどに滑り込ませる。Dはそのまま階段を降りようが、電車に乗ろうが、もはや誰の目にも止まることはないだろう。

照柿(てりがき) 本棚に戻る
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車窓のガラスに当る西日が痛いほど暑く、合田雄一郎は開いていた文庫本を閉じて、思わず顔をそむけた。日は電車の進行方向の斜め正面から差していて、先頭車量の左側のドア口に立っていると、いつの間にか垂れた額いっぱいに熱線を浴びていたのだった。 その年の晩秋、野田達夫の第一回公判が開かれたその日、合田雄一郎は転属願いを出した。翌年二月の定期移動で、森義孝とともにしばらく本庁を出ることになる。

マークスの山 本棚に戻る
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この暗い道は何だろうか。両側にそそり立つ暗い垂壁は何だろうか。
上も下もない闇が割れるような音を立てている。雪だ。暗過ぎて白いものは見えないが、顔に刺さる棘の冷たさでそれと分かる。何という暗さだろう。
加納祐介の沈んだ声を聴きながら、合田はふと言い忘れたことを思い出した。「なぁ、正月登山は北岳にせえへんか。」
《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》

地を這う虫 本棚に戻る
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長年、一日半時間も机に向かうことのない仕事に就いていた。六十を過ぎて、二度の勤めを始めた今、一日八時間座りっぱなしの仕事をしていられる自分の変わり身の早さには、ほとほと驚くことがある。 「まあ。よござんしたね…」
「何が」「長い間ごくろうさまでした」と女房は軽く頭を下げた。
「うん、まあ…そっちこそ」と和郎も頭を下げた。「おかわり」と茶わんを差し出す。

リヴィエラを撃て 本棚に戻る
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東京は雪だった。この大都市に降るそれは、不思議なことにほかのどの街に降る雪とも違って見える。ニューヨークとパリは冷たすぎるみぞれ混じりの雪。ロンドンは街の灰色の方が濃く、ベルファストの吹雪の夜は天が悲鳴をあげて唸り… 消え去った車のあとを追うように。再び鋭い雨が落ちてきた。地を叩く驟雨でたちまち聖堂の姿もなくなり、町は消え、一面の水しぶきと、それを覆う深い沈黙が流れた。これが春の雨だとは、何という土地だろう。

神の火 本棚に戻る
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雲は、水平線から二六○メートルのところにあった。それは一・五キロ北に見える内浦半藤先端の音海断崖の高さと同じであり、断崖の際に聳える鷹巣山は、その岬の辺りで麓から雲の中に消えているのだった。 空一面の雪が渦巻き、光が溢れた。自分の眼球から噴き出す光だ。解放され、発散し、天空いっぱいに散っていく光だ、と島田は思った。父さん、話をしよう。一緒に飲もう。僕はもう自由だから。