殊能将之の立ち読み


い仏 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
目の前に鉛色の風景がひろがっていた。
一面を灰色の雲に覆われた空には、ところどころ、ひときわ黒いすじ雲が渦を巻いている。たぶんもうすぐ雨が降り出すだろう。大気はすでに雨の匂いを含んでいた。
その下の海はどんよりと濁り、風にあおられて盛り上がった波涛さえ灰色だった。
風は西風、四角い帆をふくらませ、耳元を吹きすさぶ風。故郷に向かって吹く風……。
故郷か……。木造船のへさきの辺りに立って、前方の海を見つめていた円載は、自分の考えていることがおかしくなって、皮肉な笑みを浮かべた。

ラストは読んでのお楽しみ!・・・って
怒る方もいるかも………(^^;


美濃牛 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
虎は檻の中をゆっくり周回していた。
まるで時計で計ったように正確な周期を刻み、ところどころ黒ずんだコンクリートの床の上に円を描いて、しなやかな四本の脚を進めていく。両目は前方に据えられ、鉄格子のすぐそばを横切るときも、反対側にいる見物客を向くことはない。
眼球は少し濁り、黄ばんだ牙をのぞかせた口の両端には、乾いた唾液のかすがこびりついていた。
「 さっきからずっと、ぐるぐる回っとるね。いったい、何しとるんやろ」
「 何もしてない。ただ歩き回りたいから歩き回ってる。それだけだ」
「歩き回りたいから……」
・・・ラストは読んでのお楽しみ・・・

ハサミ男 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
ハサミ男の三番目の犠牲者は、目黒区鷹番に住んでいた。
ところで、わたしはこれまで鷹番という町名を見たことも聞いたこともなかったので、いったい目黒区のどのあたりにあるのか、最寄りの駅は何線のどこなのか、全く見当がつかなかった。
第一、この町名は「たかつがい」と読むとばかり思い込んでいた。もちろん「ちょうつがい」からの連想で、二羽の鷹が仲むつまじく青空を飛んでいく、江戸時代の屏風絵のような光景が頭に浮かんだ。

「このクッキー、なかなかおいしいよ。きみは食べないの?」
「さんざん食べました。太っちゃいそうなほど」
少女の笑みにつられて、わたしもほほえんだ。
彼女は十五、六歳くらいで、きっと老婆の孫なのだろう。髪を後ろで結んで、赤いセーターとキルトスカートがよく似合っていた。丸顔にはおとなしそうな微笑を浮かべている。
とても頭のよさそうな子だった。
「きみ、名前はなんていうの?」
と、わたしは訊いた。