雫井脩介の立ち読み


犯人に告ぐ 本棚に戻る
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刑事を続けていると、自分が追っているはずの犯人に、ふと、そこはかとない恐怖心を抱くことがある。
たいていの場合、それは相手の姿が見えないからだ。姿がないのに、足跡だけが残っている。追っても追っても姿をみつけることができない。ただ、足跡だけが増えていく。正体を暴けば何の変哲もない、ただのチンピラなのかもしれない。しかし、闇夜が人の心に化け物を見せるように、姿の見えない犯人は刑事の心の中でいつしか怪人と化していく。
ときには捜査の中でその怪人の気配を感じることもある。じっとこちらを窺っているような暗い眼差しが溶け込んだ空気……それを感じ、刑事は立ち尽くす。あたりを見回すが、やはり怪人の姿は見えない。
神奈川県警の警視、史島文彦にとって、そんな畏怖にも似た感情を抱いた最初の相手は、数年前に出会った[ワシ]だった。

ラストは読んでのお楽しみ!


火の粉(ひのこ) 本棚に戻る
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「紀藤さん、機能は結構遅かったんじゃないですか?」
刑事一部の裁判官室を出たところで、梶間勲は判決草稿に何気なく目を落としながら、隣に立つ右陪席裁判官の紀藤にお小さく声をかけた。
「ええ、十時くらいですか」紀藤はかすかな緊張感を言葉尻ににじませて答えた。「どうしても昨日のうちに読んでおきたい記録があったものですから」
「その時間からよく散髪屋が開いていましたね」
勲が言うと、紀藤の口から弛緩した息が洩れた。頭の後ろを照れたように撫でる。
「家内に切ってもらったんですよ。襟足が左右でバラバラなんです。鏡で見ると苛々しますよ」
「襟足は映らないからいいでしょう。前だけですよ。そうですか。奥さんに……そりゃよかった。昨日と今日じゃ五歳は違って見えますよ」
紀藤は照れ隠しのつもりか、軽く肩をすくめてみせた。

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虚貌(きょぼう) 本棚に戻る
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お母さん、どこに行ったの?
今、一緒にハンバーグをこねてたのに。
「卵を一杯入れると美味しくなるんだよ」
そう言って、ボウルに卵を五個も六個も入れて、楽しそうにかき混ぜていたのに。
あれは夢だったのか。
そりゃそうだ。ふつう、あんなに卵を入れるわけないもん。
テーブルに座ってたお父さんもいなくなってる。テーブルもないんだ。
「マー君、絶対に美味しいって言うわよ。」
お母さんが言ってた。あのハンバーグ、マー君に食べさせてあげるんだったよね。マー君、怪我して寝てるから。顔が痛いって泣いてるから……。
それは本当なんだ。
じゃぁ、お母さんは?お父さんは?
全部、夢? いるんでしょ? どこ?

ラストは読んでのお楽しみ!