恩田 陸の立ち読み


ネジの回転 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行

……ところで、きみは鳩について考えたことがあるだろうか?
もちろん、あの鳩だよ。神社の境内や、公園の広場でクックッと首を動かして歩いている彼らさ。
いつも考えるんだ。レストランのメニューに載ってる鳩は、普段見ている鳩と同じなのかなって。実際には違うらしいね。神社やその辺にいる、首の周りが緑がかった灰色の連中は、食べてもおいしくないそうだ。
旧約聖書によると、大洪水ののち、水が引き始めたのを見て、ノアは鳩を放した。
鳩は、暫くするとオリーブの葉を嘴にくわえて戻ってきたので、ノアは水が引いたんを知ったことになっている。その故事により、オリーブの葉をくわえた鳩は今も平和の象徴になっているわけだ。

「奇遇だね」
「ほんとに」
二人はたちまち打ち解け、カフェの窓際の狭い席を陣取ると、計算式を書くのに熱中し始めた。外はオレンジ色の夕暮れ。青年たちの長い夜がはじまる。
そして、この奇跡的な偶然の出会いは、新たな技術の発見に繋がるのだ。
新たな技術、人類にとっては福音となる、素晴らしい画期的な技術の。
そして、彼らはまた旅を続ける。果てしない人類の旅。好奇心という名の、人類に与えられた最強のギフトを享受する旅。
そこには正解ない。だが、彼らは試みる。彼らは新たな地平を求め、今また新たな歴史の一ページを作ることを果敢に試みるのだ。

劫尽童女 (こうじんどうじょ)本棚に戻る
最初の数行 最後の数行

闇の中で、一人の男がその瞬間を待ち続けていた。
空には星。全身を包むオゾンの匂い。澄んだ音や耳障りな音で闇を埋める虫の声。初秋の気配は夜の林の中にそっと忍び寄る。もう数週間もすれば、紅葉が天から山の斜面を駆け降り始めるだろう。
彼の胸には緊張も興奮もない。ただその瞬間までじっと待つだけだ。
男は林の中の斜面に静かに座っている。それは眠っているようにも見える。そのうちうつらうつらと船を漕ぎ始めそうだ。膝の上にだらりと腕を載せ、寛いだ表情はいい夢を見ているかのよう。
だが、彼の内側はひんやりと覚醒している。スイッチが入るのを待っている。待機電力だけがかすかに消費され続けている。
闇に同化せよ。感情を忘れ、筋肉を寛がせよ。だが、身体を眠らせてはいけない。スイッチが入った瞬間に、エネルギーを爆発させられるように。

・・・ラストは読んでのお楽しみ・・・

黒と茶の幻想 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行

森は生きている、というのは嘘だ。
いや、嘘というよりも、正しくない、と言うべきだろう。
森は死者でいっぱいだ。森を見た瞬間に押し寄せる何やらざわざわした感触は、死者たちの呟きなのだ。
森のなかには、生者と死者が混在している。足元には死者が堆積し、木々の梢からは赤ん坊の笑い声が降る。森の中にはありとあらゆる時間が流れ一一澱み一一渦を巻き一一時に逆流を繰り返し、常に撹拌されている。夥しい死者たち。すなわち、気の遠くなるような時間の蓄積を目の当たりにして、我々は森に圧倒され、畏怖を覚えるのだ。

あたしたちは、だれもが森をもっている。
Y島の森よりも広く、太鼓の原生林よりも巨大な見えない森を。
あたしたちは森の中を歩く。地図のない森の中を、どこへ続くか分からない暗く果てしない森の中の道を。
あたしはこの森を愛そう。木々を揺らす風や遠い雷鳴に心を騒がせながらも、一人どこまでもその森を歩いていこう。いつかその道の先で、懐かしい誰かに会えるかもしれないから。
あたしたちはそれぞれの森を歩く。誰かの森に思いをはせながら、決して重なりあうことのない幾つもの森を、ついに光が消え木の葉が見えなくなるその日まで。

月の裏側 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
やっと、雨が上がった。
西の空の雲が切れて、閃光のようなぎらついた陽射しが一瞬下界を照らし出す。映画の一場面のようだ。それも、これは長いストーリーの終盤間近の一場面。ラストはすぐそこまで来ている。エンドマークの気配を観客は感じている。いったいラストはどうなるのだろうと、観客は頭の中でいろいろな結末を考えている。どんな結末がお望みだろう?私は歩いている。歩いている。
そして、私はその力強い響きを聞いた一一鳩笛の音色にも似た、誰かが私の呼び掛けにこたえるかのような絶対的な響きを。誰も押しとどめることができない、太古からのその存在を示す巨大な意志の声を。
いつしか光は消滅し、雲はすっかり墨の色に沈んでいた。
再び、箭納倉の街に夜が訪れようとしている。
人類の次の夜一一新たな始まりの夜が。

六番目の小夜子 本棚に戻る
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一一その朝、彼らは静かに息をひそめて待っていた。春らしい、柔らかで冷たい陽射しを気まぐれに覗かせながら、厚い雲が彼らの頭上を覆い、時に低く垂れこめ、あるいは黒く陰を落として、ゆっくりと流れていく。 彼らはいつもその場所にいて、長い夢を見続けている小さな要塞であり、帝国であった。彼らはその場所にうずくまり『彼女』を待っているのだ。ずっと前から。そして、今も。顔も知らず、名前も知らない、まだ見ぬ『彼女』を。

第一章 待っている人々 in 三月は深き紅の淵を 本棚に戻る
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教えられた家は、坂の上にあった。
だらだらした坂は年季の入った灰色のコンクリートで、丸い輪っかがいっぱい型押しされていた。鮫島巧一は無意識にその丸い輪っかの中を選んで足で踏みながら、そのゆるやかな坂を登っていった。
「今、みんなに本を読ませるためには本を禁止するのが一番なんじゃない?」
四人の話は尽きない。窓の外にとろりと溶けそうな空の青。春は何食わぬ、澄ました顔でやってくる。それぞれの新しい物語を待つ人のところへと。