水上 勉の立ち読み


飢餓海峡 本棚に戻る
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 海峡は荒れていた。
 いつもなら、南に津軽の遠い山波がかすんで見え、汐首の岬のはなから沖にかけて、いか釣舟の姿が、点々と炭切れでもうかべたようにみえるはずなのだが、今朝は一艘の船も出ていなかった。
 沖は空のいろと一しょに鼠一色にぬりつぶされていた。墨をとかしたような黒い雲の出ている部分もあり、視界は正午近くになると、荒れる波と低くたれこめた雲に閉ざされた。
 岸壁へうち寄せる波は高かった。港湾桟橋から、コンクリートの岸へ、轟音をたてて猛りくるったように襲いかかる。灰いろの波しぶきと、風の中に、大粒の雨がまじっていた。
 倉庫やクレーンの静止した港湾は横なぐりにふきつける豪雨うに濡れ、 山の中腹に向かって、段状にひろがっている町の屋根屋根はトタンや看板が激しい音をたてた。昭和二十二年九月二十日、函館湾は、台風直前の波浪の中にあった。
 波が急に荒くなったように思われた。夕映えに光っていた空が○○の眼に、幕が降りたようにかげりはじめ、北の沖の方が一瞬黒くなった。
 海峡に日が落ちたのだ。