宮部みゆきの立ち読み


模倣犯 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
あとあとになってからも、塚田真一は、その日の朝の自分の行動を、隅から隅まできちんと思い出すことができた。そのとき何を考えていたか、寝起きの気分がどんなだったか、いつもの散歩道で何を見かけたか、誰とすれ違ったか、公園の花壇にどんな花が最低鷹という些細なことまでをも。
そういう、すべてを事細かに頭に焼きつけておくという習慣を、ここ一年ほどのあいだに、彼は深く身につけてしまっていた。日々の一瞬一瞬を、写真に撮るように詳細に記憶しておく。会話の端々までも、風景の一切れさえも逃さず、頭と心の中に保存しておく。なぜなら、それらはいつ、どこで、誰によって破壊され取り上げられてしまうかわからないほど脆いものだから、しっかりと捕まえておかなければいけないのだ。
「パパ、ここのお豆腐が大好きだったのにね」
「ね?」と、娘も言った。愛らしいその顔。若い母親は、急に胸が熱くなるのを感じた。何があっても、どんな不幸からでも、この子だけは守ってみせる。必ず守ってみせるから、神様、その力をあたしにくださいね。
「おじさん、きっと元気出してるよね?」母親は娘に笑いかけた。
「ね?」と、娘も答えた。
「さ、お買い物に行こう」
「うん」
二人は手をつないで歩み去った。
ようやく暖かみを帯びてきた風が、閉じたきりの有馬豆腐店のシャッターを、遠慮がちな訪問者のように、かすかに叩いた。誰の返事もない。誰かが帰ってくるということもない。風は、また静かに通り過ぎていった。

クロスファイア 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
廃工場を夢に見た。
冷え冷えとした銅色の闇の天井を、打ち捨てられたまま手入れも掃除もされることなく錆びつき腐食してゆく金属のパイプが、右に左に迷走している。広い工場のあちこちに、複雑な形に組み合わされた機械が機能を停止したまま蹲り、それらの間を鉛色のベルトコンベアが結んでいる。すべてがしん一一と動かない。
どこかでゆっくりと水が滴っている。夢の中でさえも眠りを誘うような……
外階段の下で、かおりはなんということもなく振り返り、寒気に頬を赤くしながら、ちょっとの間そこに佇んでいた。
「どうしたの?」
「誰かに呼ばれたような気がしたの」
少女は風に耳を澄まし、それから微笑んだ。
「なんでもない。気のせいだったみたい」
その瞳のなかに、信恵のくれた花が映っていた。星のように、愛のように。

理由 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
東京都江東区高橋二町目の警視庁深川警察署高橋第二交番に、同町二ノ三所在の簡易旅館「片倉ハウス」の長女片倉信子がやってきたのは、平成八年(1996年)九月三十日午後六時頃のことであった。
このとき交番では、駐在の石川幸司巡査が、自転車の盗難を届けてきた地元の城東第二中学一年田中翔子に応対し、盗難届を作成していた。片倉信子と翔子は城東二中で異な字バスケットボール部に所属しているのだが、この日、信子は病欠の届けを出して部活動を休み、早く帰宅していた。田中翔子はそれを知っていたので、信子を見かけると、ひどく狼狽した。
・・・ラストは読んでのお楽しみ・・・

蒲生邸事件 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
チェックインした時フロントにいたのは、ちょうど二週間前、ここを引き払うときに宿泊料金の精算をしてくれたフロントマンだった。こちらはすぐにそれとわかったが、先方はどうやら気がつかないようだ。もっとも、商売柄、気づいても気がつかないふりをするのが上手なだけかもしれないけれど。
「御署名をお願いいたします」
・・・ラストは読んでのお楽しみ・・・

鳩笛草 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
朽ちてゆくまで
新開橋へ続く通称「都電通り」と永代通りの交差点で、生涯で四度めの、そして致命的となった心臓発作に襲われた時、麻生さだ子は、帰り道に商店街の八百屋でミカンを買うことを考えていた。たったひとり残された孫の智子がそれを知ることができたのは、さだ子の手の中に握り締められていたメモに、さだこの筆跡でそう書かれていたからだった。ひらがなで「みかん」と。 ……智子は目を閉じた。
逸子と叔母の明るい声が、小鳥のさえずりのように、耳に心地よい。
もしも逸子に、あなたは将来、「マコちゃん」という女の子のおばあちゃんになるんですよと話したら、彼女はどんな顔をするだろうか。それを思うと、智子のくちびるに、微笑が浮かんだ。
そう、誰も気づかなかったけれど、智子はたしかに、ほほえんだのだった。
燔祭
夕刊を開くと、その見出しが目に飛びこんできた。
事件自体がセンセーショナルだから、見出しの文字も大きく太い。だが、その日は、ある大規模な汚職事件に関わった政治家の初公判が開かれた日だったから、社会面の中央部分は、そちらの記事に占められていた。問題の記事は、メインディッシュの付け合わせのような形に……
「パラレル」へ行ってみたんだよ。君が来るかと思って。待っていたんだ一一
佇んでいるうちに、靄もどんどん薄れてきた。その最後のひとひらが雨に飲み込まれてかき消されてしまうまで、一樹はそこを動かなかった。
目をあげると、自分の部屋の明かりが見えた。窓際でまたたきながら燃えている、雪江のキャンドルの光だった。
鳩笛草
バスを降りようとしたとき、ステップのところで、すぐ近くにいた男性客の背中に手を触れてしまった。その男性客は女のことを考えていた。目のパッチリとした可愛らしい顔だちの若い女性で、ころころと笑い転げている。
停留所に降りたところで、貴子は…
そんな思いが、初めて形を持った。まだまだ小さく、弱い苗だけれど。
「着いたら、なんて挨拶するかな」と、大木が言った。貴子は吹き出した。また少し、辛いめまいが襲ってきたけれど、笑っているうちに、その波は過ぎ去っていった。

火車 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
電車が綾瀬の液を離れたところで、雨が降り始めた。なかば凍った雨だった。どうりで朝から左膝が痛むはずだった。
本間俊介は先頭車両の中央のドア脇に、右手で手すりをつかみ、左手に閉じた傘を持って立っていた。尖った傘の先端を床につき、杖の代わりにしている。そして、窓の外を眺めていた。
平日の午後三時、常磐線の車内はすいている。座ろうと思えば、空席は……
・・・ラストは読んでのお楽しみ・・・