船戸与一の立ち読み


龍神町龍神十三番地 本棚に戻る
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階段を降りて来るきゅっきゅっという靴音にゆっくりと瞼を拭った。感触はぬるりとしている。脂汗が滲み出ているのだ。もう何日も顔を洗っていない。無精髭も伸び放題だった。梅沢信介は一瞬、洋子が食事を運んで来たのかと思った。もうそんな時刻なのかと。しかし、出勤前の洋子ならスニーカーを履いているはずなのだ。こんなきゅっきゅっという重い革靴の音を立てたりしない。ああ、もうそういうことにすら神経がまわらなくなっている。落ちぶれ果てるとは生活能力の問題だけじゃない、精神の緊張が失われることを意味するのだ。信介はテーブルのうえのスコッチ瓶を引き寄せて、ふたたびそれを喇叭飲みしはじめた。この地下の一室には窓がない。ドライエリアが設けられていないので、腕時計に目をやらないかぎり、陽が落ちたのかどうかさえわからない。だが、時間なんてどうでもよかった。胃の中でシングルモルトの温かさがじんわりと拡がっていく。

秋彦はテーブルに戻りオンザロックスのグラスを手にして窓辺に向かった。眼下に長崎港の夜景が拡がっている。ハーバーライトに照らされ、大型貨物船が何隻も係留されていた。波は静かだ。四日前のあのすさまじい嵐の名残りはどこにもない。昼間ですらここから五島列島の島影は見えるはずもなかった、ましてや、龍ノ島は。それでも秋彦は窓辺に突っ立ったまま長崎港の彼方を眺めつづけた。
明日、支局長に提出した辞表を撤回しに行こう。ジャーナリストとしての才能が問題なのじゃない。龍ノ島で何が起きたか、龍神町龍神十三番地ではどんな終局を迎えたのか、それを探り出すことはジャーナリストとしての責務なのだ、勝手に理屈をつけてじぶんに甘えてはならない。
そう思いながらグラスを飲み干した。
梅沢信介が好きだったシングルモルトの味が口の中いっぱいに拡がっていった。