Dean Koontzの書庫


クーンツ・ストーリー

1.幼い日のクーンツ 2.作家への道はキビシイ! 3.ついにベストセラー作家

4.闘いつづけるクーンツ 5.そして愛は勝つ!

1. 幼い日のクーンツ

『ディーン・R・クーンツは1945年6月9日、アメリカはペンシルヴェニア州のベッドフォードに生まれる。父の名はレイ、母の名はフローレンス。医者から子供を授かることは難しいと言われてきた二人は、結婚してから十年以上も経ってクーンツが生まれたとき、「奇跡の子供だ」と言ったという。
やがて、父レイはアルコールに溺れ、定職に就こうとしなくなり、何人もの粗暴な女性とつきあうようになった。厄介者となった父をバーから連れ戻すのは常にクーンツと母フローレンスの役目だった。クーンツは漠然と、本当にレイは自分の父なのかという疑問を感じはじめる。クーンツの容貌や体格は父とまったく似ていなかった。』瀬名秀明 Mr. Murder 解説文より
のちに精神疾患と診断されることになる父親は、クーンツが幼い頃から母親ともども殺してやると脅し、そんな環境の中でクーンツは貧しい少年期を過ごした。幼い頃からの父親との確執は、父母の死を通り過ぎた後にもずっとクーンツを悩ますことになる。
四歳の頃、母親の入院で一冬を過ごすことになったキンゼイ一家の暖かいもてなしの中で読書の楽しみを知ったクーンツは、幼い頃から読書に没頭し、八歳の頃から小説を書くようになり、九歳の頃には物語を書いた便せんをホチキスで止め、針の部分をビニールテープで隠した「本」を家族や近所の人に売っていたという。好んで読んだのはレイ・ブラッドベリ、シオドア・スタージョンの“夢見る宝石”や“きみの血を”、高校に入ってからはリチャード・マシスン“モンスター誕生”など。
『小説家たちは私にとっては英雄だった。彼らが生み出した登場人物は、私を人間のいとなみに近付け、それまでほとんど知らなかった喜びと驚異の念を私の世界に持ち込んでくれた。その日以来、私はそれと同じことを他の人たちにしたいということだけを考えてきた。一中略一 私が幼いころ読んで影響を受けた作家たちのように、ごくわずかでも人の人生に触れ、おなじくらい影響を及ぼすことができたならば、私の人生はまんざら無駄ではなかったと思う。』《ミステリーマガジン1998年8月号掲載のインタビュー記事より》
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2. 作家への道はキビシイ!

クーンツが作家としての人生を過ごすひとつのきっかけを作ったのはハイスクール時代の英語クラスの担任であり、クーンツが一時は編集も担当した学校新聞の指導教師だった。第二次大戦に従軍し、女性部隊で軍曹にまでなったというウィノナ・ガーブリック先生は卒業年度にクーンツに大声で言った。
「クーンツ!大学では歴史を専攻するようね。どうしてだかわかってるのよ。歴史が一番楽だからなんでしょ。許されるなら、なんでも楽な道を選ぶ子なの?なんてことでしょう!あなたには才能があるのよ、ものを書く才能が。底抜けの馬鹿でないんなら、その才能を伸ばす努力をなさい。つまり、英語を専攻しなさってこと。歴史じゃなくって英語!わかった?」かくして、作家など遠い夢だと思っていたクーンツは母親の給金に自分のアルバイト代を足して大学で作家への道を歩むことになる。
シッピンズバーグ州立大学在学中には三つの創作講座を受講したが、提出した作品はSFやミステリばかりで、教官の受けは悪かったらしい。しかし、在学中に大学生を対象に主催されたアトランティック・マンスリー誌の短編小説コンテストに応募したショートショートの“Kittens”(STRANGE HIGHWAYS 3 嵐の夜に収蔵)が見事入賞した。この時のサスペンス短編が商業誌に売れて、デビューに至ることになる。
大学卒業後の'66年、ハイスクール時代に一目惚れした恋人ガーダと結婚。その後の二年ほどはハイスクールで英語教師として働きながら、The Magazine of Fantasy and Science Fiction 誌にSF短編を投稿していた。この頃彼は生徒に課題図書としてハインラインの“異星の客”などのSF小説を読ませ、これにクレームがついたため深く傷付いたという。無意味なペーパーワークや無目的のプロジェクトは時間の浪費としか思えず、フルタイム作家への転向を考えるようになったが、作家としての収入は僅かなものだった。
その後は食品倉庫での荷物の上げ下ろしといった肉体労働を含めてアルバイトとして職を転々としながらも、妻ガーダの献身的な愛情に支えられて貧困の中でひたすらに小説家を目指した。このあたりはスティーブン・キングとタビサ夫人の苦労時代とやはり同じだ。アパラチア貧困対策計画の一環として、一年ほど恵まれない家庭の子供たちの生活指導にあたったこともあり、非行少年を相手に真摯な態度で取り組むこの仕事は肉体的にも精神的にも疲れるものではあったというが、こうした出来事や様々な労働が後にクーンツの作品に様々な要素として登場してくるのだろう。
「五年間私が家計を支えるから、作家で食えるようになって頂戴。五年でやり遂げられなかったら、永久に無理よ。」1969年、妻ガーダが提案により、クーンツはついにフルタイム作家としての道を歩み始めた。
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3. そして、ベストセラー作家となる

長篇デビューは'68年、SF小説“Star Quest”、クーンツは23歳の若さだった。この本はダブルブック(表裏が共に表紙になっていて、二編の違う小説の表裏どちらからでも読み始められる)で出版された。エースやランサーといった娯楽SF中心の出版者のペーパーバック・オリジナルを中心に、'75年までに約20册のSF長篇を発表。中には“ビーストチャイルド”のようにヒューゴー賞候補になったものもあるが、概して突出した作品ばかりとは言えなかったようだ。
70年代に入ると、SFと並行してサスペンス、ゴシック・ロマンスから果てはポルノまで数々なペンネームを使って大量に書きまくっては生活費の足しにした。ちなみに、クーンツの使ったペンネームはLeigh Nichols、Aaron Wolfe、Brian Coffy、David Axton、K.R. Dwyer、Owen West、Richard Paige、John Hill、Deanna Dwyer、凄い量で書き分けたものだ。
これら初期の著作は当然、のちにクーンツ・マニア垂涎のコレクターズ・アイテムとなるのだが、クーンツはこの時期の作品を“金のために書いた作品”として、「わたしの初期の作品を集めるのはいいが、どうか読まないでくれ」と言っているそうだ。とりわけSF作品に関しては、自署の版権を高額で出版社から買い戻すなどしていたようだ。'97年にディーン・クーンツと改名して以来、精力的に旧作の改稿に取り組んでいたが、「本人が思っているほど悪い作品ばかりではない」と評論家に言わしめている。しかも、Leigh Nichols名義の作品を筆頭に別名儀で書かれたものの中からもたくさんのヒット作が出ているのだ。自作に対する誠実さを感じると共に、やはり彼の才能には唸らされてしまう。
'76年のサスペンス“Night Chills”、'77年のホラー“悪魔は夜はばたく”、Brian Coffy名儀の“マンハッタン魔の北壁”でベストセラー作家に近付きはじめたものの知名度はまだ低く、《ロサンジェルス・タイムス》は「アメリカで最も知られざるベストセラー作家」と評した。だが、'80年のサイコ・サスペンスの大作“Whispers”でクーンツスタイルの完成を予感させ、その後も“ファントム”“ライトニング”と次々にスケールの大きなモダンホラーを発表し、'86年の“ストレンジャー”で一気にモダンホラーの旗手としてスティーブン・キングと並び称されるようになった。
以来、並々ならぬ才能と信じられないスピードで新作を発表し続けている。その多作ぶりにもかかわらずどれもがそれぞれに味を持ち、読んでも読んでも飽きることのない読みごたえのある作品ばかりで、質量ともに「さすが!」と唸るより他にない。
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4. 闘い続けるクーンツ

'88年9月20日、クーンツのもとへ奇妙な電話がかかってきた。怯えたようなせっぱ詰まった女性の声は「お願い、気をつけて」と、クーンツの質問には答えずに三度警告を繰り返して切れた。
その二日後、クーンツは施設にいる年老いた父レイを訪ねた。アルコールを飲むことはやめたものの暴力はふるい続けたレイが、その日も人を殴って問題を起こしているとの連絡を受けたのである。クーンツが行くと、レイはナイフを取り出して襲いかかってきた。 格闘の末、クーンツが父の手からナイフを奪ったそのとき、警官がやってきてクーンツに銃を向けた。「警察は、もし僕がナイフを落とさなければこの僕を撃とうとしていた。警察は僕を加害者だと思ったんだ。」 レイの死後、あの不思議な電話は亡き母フローレンスからのメッセージだったのではないかとクーンツは考えるようになった。
フローレンスは'69年、脳卒中で他界していた。死の床で発作後の失語症と闘いながら、父レイに関して「どうしても教えておかなければならないことがある」とクーンツに語ろうとした。だが、レイが病室に入ってきて、まもなく息を引き取った。クーンツは母の告白を聞く機会を永久に失っていた。
ある日、雑誌記事の調べものをしていたガーダが、'44年にメリーランド州の大学病院で人工受精が行われていた記事を見つける。クーンツは、この人工受精実験で生まれた子供の一人が自分ではないかと悩み、自分と父との血縁判定を考えるようになる。しかし'91年、父レイは81歳で他界。結局クーンツは自分の出生を証明する手立てをも永久に失ってしまった。
レイの死の翌年に出版された“Dragon Tears”から、クーンツはミドルネームの R を取り去った。表向きの説明はいろいろあるが、父Rayの亡霊を断ち切ろうとしたのではないかと研究者は考えているようだ。父レイの遺伝子が次世代へ受け継がれていくことへの不安、いつかは自分が父のようになるのではないかという不安を断ち切ろうとしたのかもしれない。
クーンツの物語の登場人物たちは、様々な過去から立ち直ろうとあがき、自分の人生を取り戻そうと必死に生き、必ず自分の人生を取り戻すのだ。これはクーンツ自身の姿であろうと思う。逆に楽天的でいつも明るく前向きに人生を謳歌するタイプも必ず登場する。これはクーンツ自身の希望の到達点であり、時に妻ガーダであり、時に本当の父親だったのではないかと常に思っていた大好きなレイ・モック叔父なのだろう。そして彼らが闘う相手こそ、クーンツ自らの内なる魔物である恐れや不安の象徴であり、父レイの呪縛であり、自分自身なのだ。自ら作り出す物語りの中で、クーンツは今も闘い続けているのかもしれない。
クーンツは自分の作品をいろんな人たちに捧げている。'70年作のSF小説“Dark of the Woods”には「To Dad and the memory of my mother」と父レイに捧げた献辞があるが、父に捧げたものはそれひとつだけという('72年作“StarBlood”の献辞「For Dad」 は出版社サイドが勝手に付けたものらしい)。でも、いつかクーンツが内なる魔物と決着を付けて、再び「For Dad」と献辞のつけられた本が出版される日が訪れることを陰ながら願おう。
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5. 私にとってのクーンツ

ホラー&ミステリ小説界ではかのスティーブン・キングに並び、名実ともに時代を代表する実力派となったディーン・クーンツ。 私は“WHISPERS”あたりから読み始め、ファン歴はおよそ20年になるが、いまだに飽きることもなく新作を待ち、たまに旧作を引っ張り出して読み返したりもしている。
クーンツ作品はとにかく一気に読ませてしまう勢いがある。人物や背景描写の巧みさももちろんだが、そのストーリー展開の驚きと緊張感にハラハラドキドキ、ついつい引きずり込まれてしまうのだ。モダン・ホラーの旗手と呼ばれているくらいだからストーリーはもちろん怖い。クーンツの作り出す魔物たちは恐ろしく残忍で、小説を手にとる読者の心の中に恐怖を紡ぎ出す。だが、決して“ホラー”と単純にジャンル分けできるものではない。作品のテーマは“愛”であり、敵は“渾沌”なのだ。登場人物たちは愛を手に入れることによって“人生”を取り戻し、渾沌と闘うことによって秩序を取り戻そうとする。ストーリーは怖いけれど愛情と勇気に満ちていて、時に温かく、時に悲しい。クーンツの小説の中では、恐ろしげな魔物にさえも滅びの哀れを感じさせてしまうやさしさがある。
さらに私を魅了するのは、全体に散りばめられたユーモア溢れるセリフや、かわいい登場人物たち。子供のいないクーンツが描く子供たちはキラキラと瞳を輝かせながら思わぬ勇気を奮い大活躍をするし、善良で誠実で、そして陽気な犬たちは変わることのない友情を分かち合う友として欠かせない存在だ。新作が出る度に、今度はどんなかわいいおチビさんが活躍するのか……と、これも私にとっては大きな楽しみのひとつだ。日本人の哀しさか、たまに愛し合うカップルの姿に恥ずかしくなったり、「そんなにうまくいくかぁ〜」と本を相手にテレたりもするが、とにかく、愛は常に勝つのだ!!!
しか〜し、年間8冊が翻訳され『クーンツ元年』と呼ばれた'89年を皮切りに翻訳ラッシュが続き、着実にファンが定着していったと思われていたものの、'92年頃からは年にほぼ一冊の翻訳ペースに落ち着いてしまった。結果として、悲しいことに“超訳”でお馴染みのアカデミー出版に新作の版権が移ってしまうという信じがたい事態になってしまった。'97年に翻訳された「インテンシティー」を含め、新作に白石朗氏や松本剛史氏、大久保寛氏といった熟練の訳者たちの名は見られない。勝手な解釈で原文をいじる“超訳”なるものの正体をクーンツは知っているのだろうか???
これからもクーンツを追いかけていきたいところだが、多くのファンの願いが届くことを信じながら、勇気ある出版者が現れてくれることを願いながら、しばし時を遡って、クーンツが「読まないでくれ〜」とのたもうた作品など探し始めるのも良いかもしれない。

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