レイ・ブラッドベリの立ち読み


蝋燭 The Candle 本棚に戻る
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それがいつものことであれば、ジュールス・マーコットが小さな金物店のショーウインドウに立ちどまったのも、ささいな好奇心のなせる業だったかも知れない。ところが今夜は別で、心にわだかまる絶望と、憤怒の冷たいしこりのせいだった。
ほかに何のあてもなく、硬く光るもの、引金と銃身のついた金属製品に眼を注ぎ、この弾丸と鋼鉄が本当にもろもろの悩みを絶ってくれぬものかと思案にくれていた。
「無理だな」ジュールスはガラスに映った、王髪、無精ひげの自分の顔につぶやいた。
『愛するヘレン。きみのことを怨んでいない証拠としてささやかな記念品を送る。これは祈りの蝋燭だ。きみの愛する人に幸運と幸せをもたらすために、夕方に火を点し、愛する人の名を三度唱えるのだ。
よき思い出に。 ジュールス 』
ヘレン・マーコットは涙をぬぐった。
彼女は燃えている蝋燭に向かった。そのやさしい息遣いが炎に触れた。三度、静かに、熱っぽく、憧れをこめてつぶやいた。
「ジュールス、ジュールス、ジュールス」
蝋燭の炎がそっとゆらいだ。

見えざる棘 A Touch of Petulance 本棚に戻る
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何事もなければ、ごくありふれた、いつもと変わらぬ五月のある宵だった。が、この日、あと一週間で二十九歳の誕生日を迎えるジョナサン・ヒューズは、なんと自分の《運命》に出遭ったのだった。どこか他所を流れる時間から、彼方に待ち受ける歳月から、見もやらぬ人生から、その《運命》は訪れた。
最初はもちろん、それとはわからずにいた。だが《運命》は、ペンシツヴェニア駅からヒューズと一緒に乗り込んで、列車が夕食どきのロング・アイランドを走り抜けていくゆくあいだも、ずっと並んで腰をかけていた。ジョナサン・ヒューズの注意を惹いたのは、年輩の男の姿をしたこの《運命》の持っていた新聞で、しばらくは黙って見つめていたジョナサンも、ついに口に出して言った。
「失礼ですけど・・・」
「そんなところに立っていないで一一風が入るのよ」
包みをすっかり開いて、ジョナサンは身をこわばらせた。彼の手のなかにあるもの、それは小さな拳銃だった。
かなたに、列車の最後の叫びが響いた。それは風のなかに、紛れて消えた。
「ドアを閉めてったら」
彼の顔は冷たかった。彼は眼を閉じた。
いまの超え。ほんのわずかながいまの妻の声には、目に見えぬ棘が潜んでいはしなかったか?
たち騒ぐ心で、彼はゆっくりとふり返った。肩がドアをかすった。ドアは漂うように動はじめた。そして一一
風に吹かれてひとりでに、大きな音を立てて閉まった。
ばあん。

たんぽぽのお酒 DANDELION WINE 本棚に戻る
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静かな朝だ。町はまだ闇におおわれて、やすらかにベッドに眠っている。夏の気配が天気にみなぎり、風の感触もふさわしく、世界は、深く、ゆっくりと、暖かな呼吸をしていた。起きあがって、窓からからだをのりだしてごらんよ。いま、ほんとうに自由で、生きている時間がはじまるのだから。夏の最初の朝だ。
ダグラス・スポールディングは、十二歳だった。彼は、たったいま目覚めたばかりで、朝はやい夏の流れに身をまかしていた。この三階の天井の塔にあるベッドルームに横になっていると、すばらしい力をさずけられて、六月の風にのって天高く飛翔している気持ちになる。なにしろ町で一番の立派な塔なのだ。夜には木々が一団となってこの塔をめがけてうちよせてくる。そして彼は、この灯台から、楡や樫や楓であふれる海上に、四方八方、閃光のような視線を放つ。ところが、いまは……「いいぞ!」とダグラスは小声で言った。
彼は目を閉じた。
六月の夜明け、七月の正午、八月の宵は過ぎ、終わり、おしまいになって、永久に去ってしまい、ただそのすべての感覚だけを、ここの、頭のなかに残してくれた。いまや、過ぎさった夏の総決算をするものは、穏やかな秋、白い冬、涼しい、緑の萌える春なのだ。もしぼくが夏を忘れるようなことがあったら、地下室にはたんぽぽのお酒があり、一日一日全部の日が大きな数字で書かれているんだ。ぼくはそこにしばしば行って、これ以上見つめてはいられないまでに太陽をまっすぐのぞきこみ、それから目を閉じて、網膜にやきつけられた点をじっと見つめると、つかのまの傷あとが温かい瞼に踊っているのだ。火と反射の一つ一つを並べ、並べかえしていると、ついに模様がはっきりして……
そう考えながら、彼は眠った。
そして、眠っていると、一九二八年の夏が終わった。