横山秀夫の立ち読み


震度 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
寝覚めは不意に訪れた。
椎野勝己は目を瞬かせた。睫毛に冷気を感じる。天助が闇に溶け込んでいる。首を曲げた。障子の白さはぼんやりとわかる。六時少し前だろうか。体を捩り、枕元の腕時計に手を伸ばして引き寄せた。目に触れそうになるほど近づける。六時十分前だ。適中の思いが、ささやかな幸福感を呼び込んだ。このままあと二十分はぬくぬくとしていられるということだ。膝の辺りで丸まった毛布を手繰り上げ、掛け布団の胸元から忍び入った冷気を丹念に追い出すと、椎野は仕切り直しの思いで目を閉じた。
そうしてみて、夢を見ていたことに気づいた。
例の夢だった。小劇団の舞台劇。そんな空気を纏った夢だ。
ラストは読んでのお楽しみ!

踏み 本棚に戻る
最初の数行 最後の数行
三月二十五日早朝一一。
三寒四温でいうなら、真壁修一の出所は寒い日にあたった。高塀の外に出迎えの人影はなく、だが、内耳の奥には耳骨をつんつんと突いてくるいつもの感覚があって、晴々とした啓二の声が頭蓋全体に響いた。
《修兄ィ、おめでとうさん! え〜と、まずは保護司さんのとこ?》
〈いや〉
真壁は答え、ハーフコートの襟を立てながらバス停に足を向けた。
ちょうど、市内に向かうバスが来たところだった。真壁は「作業賞与金」と印字された薄っぺらい茶封筒の封を切り、手のひらに小銭を滑らせた。
アスファルトの地面に、淡い影が伸びていた。
しばらく見つめていた。
ペダルを漕ぎ出した。
影は、どこまでもついてきた。

第三の時効:囚人のジレンマ 本棚に戻る
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外は雪がちらついていた。
黒塗りの捜査指揮車は T署を出て帰路についた。田畑昭信は後部座席で瞼を閉じ、車の揺れに身を任せていた。全身がだるい。こめかみには鈍い痛みがある。F県警本部の捜査第一課長を任ぜられて二年になるが、殺しを同時に三つ背負ったのははじめてのことだ。
今月の三日に発生した主婦殺し。
その二日後に起きた証券マン焼殺事件。
そして、三日前のバレンタインデーに発生した調理師殺し。
「藤吉郎はよせと言ったろう?」
「すみません」
慌てて相沢がヒーターを切った。
「馬鹿。今から切ってどうする?」
「あ、そうか」
田畑は小さく笑った。
一人の老刑事が強行犯係を去り、頬の赤い童顔の刑事が新たに加わる。
「T署だ。証券マン殺しが挙がる」
「えっ?」
睡眠不足が体に堪えていた。○○が落ちる夢を見ることにして、田畑は車の揺れに身を任せた。

深追い 本棚に戻る
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市役所の斜向かいにあった三ツ鐘警察署が、市郊外の県道沿いに移転して五年になる。等価交換により、旧地のざっと三倍の敷地を確保できたから警察部は欲張った。五階建て庁舎の裏にまず署長と次長の官舎を建て、そのまた裏手に署員用の家族宿舎と独身寮を建てた。県警本部からの距離が遠いこともあって「署風」は開放的な部類に入るのだが、職住一体の息苦しさはいかんともしがたい。警察職員の間では「三ツ鐘村」と揶揄され、できれば赴任したくない所轄の一つに数えられている。
四月御第三水曜日はよく晴れた。
「村」の中庭では署長主催の「みつがね交歓会」が開かれていた。
ラストは読んでのお楽しみ!

顔 FACE 本棚に戻る
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三月初め。微風。いまは廃校となった山あいの分校の跡地に、十人ほどの若者が手に手にスコップを持って集まった。
タイムカプセル開封一一。
湿気による腐蝕が心配されたが、文集も図画もどうにか無事だった。拍手と歓声。笑顔が重なる。弾む輪の中で、この日、仕事で来られなかった「ミーちゃん」の作文が読み上げられ、ひとしきり話題の中心となった。

わたしのゆめ

わたしのゆめは、ふけいさんに、なることです・・・

ラストは読んでのお楽しみ!

半落ち 本棚に戻る
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茶柱が立った。
ゲンを担ぐほうではないが、無論、悪い気はしなかった。神棚のわきの壁時計は五時四十分を指している。まもなくだ。夜明けと同時に、懐に逮捕状を呑んだ強行犯捜査一係が『小森マンション』508号室に踏み込む。小学生女児ばかり八人を陵辱した連続少女暴行魔。被害届の受理から二ヶ月、延べ三千人の捜査員を投じた組織捜査の巨大な網が、たった一尾の魚を捕るために引き上げられる瞬間だ。
一一うまくやれ。
志木和正は、茶柱もろとも覚めた茶を飲み干した。W県警本部捜査第一課強行犯指導官。四十八歳。
ラストは読んでのお楽しみ!

動機本棚に戻る
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動機
午前十時を過ぎて風がでた。
海岸を見下ろす県立病院のロビーに、師走の慌ただしさはなかった。薬の順番を待つ患者の姿も、見舞客の姿も、風を巻いて走る看護婦の姿もない。いつ来てもそうだ。窓に鉄格子の嵌まるこの病院には、外と混じり合うことのない空気と時間が停滞している。
携帯を懐におさめると、○○は国道に車を戻し、アクセルを踏み込んだ。
一一やっ。
心の中で小さく言った時、冬のものとも思えぬ穏やかな海がぱぁっと目の前に広がった。
逆転の夏
連日のぐずついた空から一転、不意打ちのような真夏日となった。昼のニュースは慌ただしく関東地方の梅雨明けを告げ、『ノザキ典礼搬送』の事務所でも、午後には今年初めてのエアコンのスイッチが入った。
『得意先』の一つである得養老人ホームから搬送依頼の電話が入ったのは、ようやく陽が傾き始めた頃だった。
生きていくしかなかった。どれほど無様な生きざまであろうと、すっかり投げだしてしまえる人生などないに違いなかった。
○○は金網を伝いながらゆっくり昇降口を目指した。
濡れた頬を風が知らせた。
それは、長かった夏の終わりを告げる風にも感じた。
ネタ元
少し熱がある。水島真知子は起き抜けからそう感じていたが、計って確かめるでもなく、ましてや医者も薬も頭になかった。警察幹部の官舎を朝駆けして回り、県警本部ビルの記者室で交通事故の統計原稿を書きなぐり、昼食もそこそこに県南部の鷹見市へと車を走らせた。 電話が鳴り出した。午前十時。デスクからの『定期便』一一
真知子が動き出せば、虫たちも動き出す。わかってはいたが、真知子はミカンの消しゴムをゴミ箱に放ると、その手を受話器に戻した。
密室の人
テッセンの一枝が風韻を高めていた。
美和は鏡柄杓に構えた。淡い緑に小花を散らした京小紋が、楚々とした座り姿にほどよい緊張を与えている。
コトッ。柄杓を引く音が壁に消え、微かな息づかいが耳に届いてくる。美和は裾を直し、一つ間をとって萩茶碗となつめを膝前に寄せた。帯から袱紗を取り……
ラストは読んでのお楽しみ!

陰の季節本棚に戻る
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春も間近の風音も、この部屋までは聞こえてこない。窓は終日閉め切られ、隙間なく引かれたカーテンにも厚みがある。空調は働いてるようだが、耳障りな音の割に効いていないことは、ここで半時間もパソコンを叩いていればわかる。
D県警 本部の北庁舎二階、五坪ほどの警務課別室は、普段あまり使われないこともあって、『別荘』とか『別宅』とか呼ばれる。もっとも、そう呼ぶのは警務課に属する人間だけで、それ以外の警察職員は、意味ありげな笑みを浮かべ、あるいは微かな怯えの色を瞳に覗かせながら、『人事部屋』と揶揄する。『連中、いよいよ人事部屋に籠城だ』。そんなふうに使うのだ。
見上げた空は高かった。
警務課のデスクには、新型ヘリコプターの見積もりが届いているはずだ。パイロットはもういい歳だ。今度は自前で育ててみるか。いや、やはり、自衛隊から引っ張ってくる方が無難だろうか一一。
二渡は、空に向かって大きく伸びをした。
一一カイシャがひけたら、前島のツラでも拝みにいくか。
それで、あっ、と思い出した。
二渡は慌てて車に戻り、無様に膨れた書類鞄の中身を掻き回した。確かこの中だ。半月前、女房に持たされた『チビ』の入学祝いがどこかに眠っているはずだった。