柴田よしきの立ち読み


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「うわー」
大原南の、半ばうっとりしたような声が俺の感動を深くした。
「涼しーーーーーい」

「中古とは言えエアコンだからな」
俺は満足して、吹き出し口から流れ出る涼風の中を歩き回った。
「よおし、これで残りの夏はなんでも来い、だ。バリバリ仕事してやるぞ」
「駄目ですよ、園長」
南は腕組みした姿勢で、批判がましく俺を見た。その眼差しが掛橋小夜子のそれとあまりにも似ていたので、内心ゾッとした。女ってやつはどうしてこう、男に対して馴染めば馴染むほど、母親のような顔でものを言うようになるんだろう?
「副業の方はしばらく控えて下さるって、あれほど約束したじゃないですか。あんな大怪我したばかりだって言うのに」
そこにひとりの女性がいた。何だかとても心細げに立っていた。
俺は近づいた。
黄昏の中で、俺はその、初めて出逢った女の顔を、よく知っている、と思った。
よく知っていた。
生後五ヶ月になる赤ん坊に、その顔はとても似ている。みゆき、という名前の、すごく可愛い赤ん坊に。

「高梨さん……ですね」
俺は声を掛けた。
彼女に瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「どうぞ、上がって下さい。みゆきちゃんは三階にいます」

理紗がぎゅっと俺の掌を握った。

今夜はきっと、かなり幸せな夜になるな、と俺は思った。

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標識のあった分かれ道を過ぎてもう十五分は走っている。
成瀬歌義はそろそろ不安になって来て、隣でハンドルを握る田津波綾の横顔に話しかけた。
「ね、道間違ってへん?さっきの標識からもう随分来てるで」
「そんなぁ」綾は間延びした声で応えた。
「ナビは歌やんやないの。うちは知らんわ。右やて歌やんが言うから曲がったんよぉ」
「手紙によれば、途中で地道に入るってあるんだけど」
輝く夕日の中を、飛行機は空へと吸い込まれていく。
振り続ける3人の手の指先が、夕日の中でひらひらと揺れて、まるで金色の花びらのようだ、と竜之介は思う。

この世で一番美しいもののひとつ。
若い時代だけの、その一瞬。

若い教え子たちの、その無限の未来の輝きは、ほんの少しだけ、まぶし過ぎる。
竜之介は、熱くなったまぶたを指先で押さえて、こぼれ落ちた涙に、苦笑いした。