■死ぬかと思った ■罠にはまった ■胸にこたえた ■腹がよじれた ■寝るかと思った

桐野夏生の立ち読み


柔らかな頬 本棚に戻る
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石山の臑には子供の時に鉄条網で怪我をした痕がある。固い骨の上にある小さな褐色の深い傷だ。原っぱで足を引っかけて転び、抜くのに苦労するほど深く刺さったのだという。カスミはさぞかし… 後ろで物音がしたので振り返ると、男の人がにこにこしながら有香を見ていた。
この人は私を殺すんだ。
有香は、早く殺してくれと細い首を差し出した。

OUT 本棚に戻る
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駐車場には、約束の時間より早めに着いた。
車を降りると、湿気を多く含んだ七月の濃い闇に包まれた。蒸し暑いせいか、闇が黒々と重く感じられる。
香取雅子は息苦しさを覚えて、星の出ていない夜空を見上げた。冷房の効いた車内で冷やされて乾いた皮膚が、たちまちねっとりと汗をかきはじめる。
新青梅街道から流れてくる排気ガスに混じって、揚げ物の油臭い匂いが微かに漂っていた。これから、雅子が出勤する弁当工場から来る匂いだ。
《帰りたい》
佐竹は虚ろな夢に生き、雅子は現実を隅から隅まで舐めて生きる。雅子は、自分の欲しかった自由は、佐竹の希求していたそれとは少し違っていたことに気付いた。
雅子はエレベーターのボタンを、力を込めて押した。
これから航空券を買うつもりだった。佐竹とも、ヨシエや弥生とも違う、自分だけの自由がどこかに絶対あるはずだった。背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない。風の唸りにも似たエレベーターの昇って来る音が、すぐ側でしている。